戦後荒廃した我が国の再建を目指し、官民あげて産業の復興と工業技術の向上に取り組んだ。 産業の基礎技術である溶接技術の適用を推進する機関設置の必要性から、溶接学会が中心となって昭和24年、東京で日本溶接協会が設立された。 溶接協会は企業を主体として、溶接学会との協力体制をとり、溶接材料、溶接機器、船舶車両等の産業別と、試験検査、技術指導等の専門部会中心の組織で発足した。 その後、協会業務は溶接技術の調査研究をはじめ工業標準の作成、技術の認定検定など拡充された。 昭和30年頃には経済振興も軌道に乗って、神武景気、造船ブームが始まった。 新しい溶接法の紹介指導、溶接工技量検定開始に伴う技能者訓練、安全教育等の普及活動が要望され都道府県支部の結成が積極的に進められた。 広島県においても当県ご出身の故渡辺正紀教授のご尽力により溶接学会中国支部が後援して結成の運びとなった。 昭和31年2月21日原爆による倒壊を免れた広島商工会議所において、関係者により広島県支部設立総会が開催された。 総会は故河野良雄氏(東洋工業㈱常務取締役)司会で議事が進められ、支部規約の承認、役員の選出などが行われた。
大阪大学 渡辺正紀先生 当時の広島商工会議所
初代支部長に故川良武次氏(三菱造船㈱広島造船所長)が就任し、理事・役員に梅柱剛氏(三菱造船㈱)、故濱田日吉氏(播磨造船㈱)、故浜本博登氏(広島大学)等が選任され、事務所を広島県立呉工業試験場(呉市)に設置した。
初代支部長 川良武次氏 当時の広島県立呉工業試験場
以来、広島大学の浜本教授が中心となって県支部の運営に当たられ、県下主要企業から理事・役員を選出し、広島県支部の業務を通して溶接技術の普及向上に貢献してきた。 (尚、昭和56年5月26日浜本先生ご逝去後は、太田唯男氏(マツダ㈱)が引き継いだ。) 中でも溶接技術競技会は毎年活発に行われ、全国大会でも別表の如く優秀な成績を収めている。 更に選手参加の幅を広げるため、競技会事前に技能講習会を開き、運棒操作の研修の場を提供するなど技能者活性化に果たした役割は大きい。
広島大学 浜本博登先生
全国溶接技術競技大会優勝者氏名(広島県代表選手)
県支部の活動として中国地区溶接技術検定委員会からの業務委託事項、事務処理の他、溶接技術の発展に伴い、30年代は新溶接材料機器、40年代は半自動化、省力省人化、50年代は特殊材料の溶接、平成に入ってからは無人化環境問題を中心に、講習会、展示会を行い、技術相談指導や、工場見学会も定期的に行われている。