一般社団法人広島県溶接協会

広島県の溶接史(日本溶接協会広島県支部創立40周年記念誌より)

3.産業別溶接の発展

3-1船舶産業

造船は戦前から広島県の主要産業である。
戦後の復興期には資源輸送の手段として、大いに船舶が建造され、また輸出もされて外貨獲得の主幹産業になった。
昭和30年代にイギリスを抜き世界最大の造船大国にまで上り詰め、旧海軍工廠を引き継いだ石川島播磨重工㈱呉造船所では数々の世界最大のタンカーを建造し、昭和50年、「日精丸」485,000DWTを建造した。
昭和48年のオイルショック以降、半製品の輸送に主力が移り、海上輸送貨物の減少と共に、船舶建造量も激減した。
船舶建造技術を応用した海底石油掘削装置など、海洋構造物の建造も原子力など代替エネルギーと省資源技術の開発によって次第に衰退しつつある。
溶接は船舶建造の主要技術として、以下に述べるごとく飛躍的な発展を遂げ、船舶建造に大きく貢献をした。その中で広島県の役割を振り返ってみよう。



●大正末期
溶接は今世紀初頭(1919年)イギリスで建造されたFullargeというセメント運搬船が、岩礁に乗り上げて、鋲船なら沈没するところであったが、その水密性の良好なため助かったと言うことから、以後船舶の建造に大いに採用された。
我が国にも、大正8年に呉海軍工廠と三菱長崎造船所にほぼ同時に導入された。
当時は独系スウェーデン人Kjellbergの発明による被覆溶接棒使用のアーク溶接が主流であった。
その頃溶接部の品質は、作業員の技量と溶接棒の性能にほとんど支配され、各造船所毎に自家製溶接棒を製作していたが、中でも呉海軍工廠製のは”海軍の赤棒”(酸化鉄系)と呼ばれ、アークの安定性、作業性が良いことで有名であった。


●昭和初期
ドイツ海軍は1万トン豆戦艦Deutchlandの建造に大幅に電気溶接を採用して重量軽減に成功し、それに伴う戦闘力の増加により、世界に「魔の戦艦」と呼ばれた。
日本海軍でもこれに倣い、呉海軍工廠建造の、水雷敷設艦「八重山」(昭和6年進水)軽巡洋艦「最上」(昭和10年竣工)級では大幅に溶接が採用された。
しかし、横須賀海軍工廠で建造された潜水母艦「大鯨」が溶接歪みが大きく、船型を保持し得ず失敗、解体され鋲構造に変えられた。
その後、日本海軍は軍艦の主要部分に溶接を使用しなかったために、雷撃による被害時に気密性に劣り、誘爆を起こしやすく脆かった。
それでも、溶接の研究は呉海軍工廠で続けられ、昭和14年には日本で最初の自動塗布溶接棒製造装置が造られている。
また、8mm径長尺棒による呉船式半自動溶接装置も開発、実用化された。
現在でもグラビティ溶接として全国に普及している。

ドイツ海軍 豆戦艦「Deutchland」 軽巡洋艦「最上」
ドイツ海軍豆戦艦「Deutchland」     軽巡洋艦「最上」


●昭和20年代(日本の復興期)
昭和26年3月、旧呉海軍工廠の設備にアメリカのNBCが進出することになり、昭和27年1月に第一船「ペトロクレ」を起工したが、これは3万8千トンという大型タンカーで、この建造には、アメリカの戦時標準船建造で多用された溶接法が全面的に採用された。
特に戦時中にアメリカのユニオンカーバイド社で開発されたユニオンメルト溶接(サブマージドアーク溶接)の中古機による自動溶接や大型ブロック建造法が大幅に取り入れられて、能率も飛躍的に上がった。この2件が紹介されたので、国内の造船業界から多数の見学者を集めた。
このことが後の35年~45年における造船立国の起源になった。

NBCにおけるブロック建造 NBCにおけるブロック建造


●昭和30年代(成長期)
全溶接船にしばしば脆性破壊を発生する事故があり、その原因の追及と防止法の確立が世界的に造船界の大課題となった。
このため、旧海軍工廠所有の3千トン試験機を用いて、東京大学の木原、金沢両教授と川崎重工業㈱他が、呉市で大型試験を行い脆性破壊の実験質的再現に成功した。
これによって寒冷時に脆性破壊が起こる原因が明確になり、防止法も確立された。
これは、旧呉海軍工廠の3千トン試験機の存在によって初めてなしえた実験である。
その試験機は現在広島大学に移管され、現在でも大型試験に使用されている。

脆性破壊を起こした「クリスターサーフィン」号 脆性破壊を起こした「クリスターサーフィン」号


●昭和40年代(成熟期)
我が国の造船業がこの時期において世界市場を対象とした国際産業の地位を確立した。
各造船会社は競って設備投資を行い、ドックを拡充し、建造能力を大きく増大させ、昭和34年「ユニバースアポロ」号以降はULCC(30万トン以上の超大型船)を建造した。
昭和46年に「日石丸」(373,000DWT)、48年に「グロブティックトウキョウ」(483,000DWT)、50年には「日精丸」(48,000DWT)など世界最大のタンカーが次々に呉市で誕生した。

世界一の船舶「日精丸」 世界一の船舶「日精丸」

一方、造船会社は40年代半ばから海洋機器の分野にも進出を開始し、石油掘削装置も含めて、次々と実績を重ねて行った。
広島県下の造船所では海底油田掘削用リグを我が国で初めて建造するようになり、造船で培ってきた高度な溶接技術を基礎とした製造技術が存分に活かされた。
特筆されるものに耐ラメラーテア鋼の開発がある。
昭和50年には沖縄海洋博のアクアポリス等海洋構造物が建造された。

世界初の未来型海上都市「アクアポリス」 世界初の未来型海上都市「アクアポリス」


●昭和50年代(転換期)
続く円高と第二次石油危機の発生以降、造船ブームは去り、国内の造船会社は設備削減を迫られ、海運不振、船腹余剰、韓国の追い上げ急という、二重苦、三重苦の中にあり、必至で生き残りを掛けて戦う時代に突入した。
次第に大型タンカーは減少し、代わりに付加価値の高い貨物船、コンテナ船、鉱石運搬船が増加してきた。
各社は生産体制を集約・再編成し、適正規模の確保と、合理化によるコスト競争力の強化により、高付加価値の生み出せる造船工場への転換を目指した。
その目的のために溶接に課せられる自動化、省力化、高能率化などへの期待はますます高まってきた。
溶接工法は自動化、ロボット化は進み、使用鋼材も高張力鋼、低温用鋼、等複雑多岐に渡った。溶接材料、溶接機器の開発も目覚ましいものがあった。

コンテナ船 コンテナ船

一方、船舶建造から撤退した造船所は造船で培ってきた溶接技術、生産技術をフルに活かして、生産機種を海洋構造物、大型陸上構造物に変換していった。
現在は海洋運輸システムの効率化を目指して、荷役設備の開発整備が進行している。
港湾設備として設けられたコンテナクレーンと輸送船の関係を示した。

第四世代コンテナクレーン 第四世代コンテナクレーン

海上輸送であれ、海洋構造物であれ、海上の作業には危険が伴うので、品質の保証と危険の予知システムの向上が是非望まれる。
造船・海洋構造物などでそれらの技術を完成させたとしても、一つの機種が一つの国で隆盛する期間は、大体20年が限度であると考えられる。
機種が変われば溶接技術への要求事項が異なるが、それに適用できるよう溶接技術も変化し、開発を行わなければならない。
そのためには基礎的な研究から高度の応用まで、かつて日本の溶接界が戦後から歩んできたように幅広い技術者の参加、協力が必要である。
この協力体制が機能し続ければ、溶接技術は日本の産業の発展に貢献できるものと確信する。