一般社団法人広島県溶接協会

広島県の溶接史(日本溶接協会広島県支部創立40周年記念誌より)

3.産業別溶接の発展

3-2自動車産業

呉海軍工廠関係の業務や一般機械製造を行っていた東洋工業㈱は、昭和の初め頃より自動車の研究を始め、昭和6年広島県安芸郡府中町に新工場を完成、三輪トラックの生産を開始した。
戦後はいち早く生産を再開し経済復興の重要手段である輸送の主力を占めた。
その後小型四輪トラック、軽乗用車、小型乗用車と数々のニューモデルを出し、西日本を代表する総合自動車メーカーに成長した。
新しいものへの挑戦を続け、先進的な生産技術、開発力をもって日本の自動車産業発展に貢献している。



●昭和初期
昭和6年に生産されたマツダ号は、販売元三菱商事のスリーダーヤモンドとMazdaを組み合わせた製品マークを付けていた。
その後モデルチェンジを重ね昭和13年には戦前最後のモデルGA669ccを生産している。
昭和6~20年の自動車全生産台数を見ると、戦後の三輪トラックは昭和12、13年をピークとして減少し、昭和18年からは生産は断続状態になる。

マツダ号DA型482cc(昭和6~10年) マツダ号DA型482cc(昭和6~10年)

昭和12年には乗用車の開発を検討し始め、大型プレス機械、金型用型彫機などをアメリカから買い付けしている。
ヨーロッパの小型車をモデルとして研究を重ねた結果、昭和15年には小型乗用車の試作が完成したが、時局下のため生産には至らなかった。

小型乗用車試作車 小型乗用車試作車


●昭和20年代
戦後の経済復興と共に三輪トラックの需要が増大した。
昭和25年には荷箱を延長したロングボデーLB車701ccを出し、同年ニューモデルCT1200車1157ccを生産、三輪トラック性能向上の先鞭を付けた。
マツダ三輪トラックの特徴の一つにプレス加工を多用していることがある。
鋳鍛造品が普通の所を鈑金に置き換えようという考えで、当然溶接も多く活用された。
例えばバーハンドルはパイプを使用せずプレス成型品であり、前輪フォークを指示するフレームヘッドもプレスと溶接の巧みな組み合わせであった。

三輪トラックLB型車の三面図 三輪トラックLB型車の三面図

その当時より生産には抵抗溶接も特殊なものではなく、軸物ではフラッシュ溶接、鈑金ではスポット溶接が適切に使われていた。
一例としてボックス外板のスポット溶接にはバーウェルダーを準備していたが能率が悪いので、車内工作機部でエアー加圧電極を取り付けて昭和27年にマルチ溶接機に改造した。
日本の自動車産業でマルチ溶接機が使用されたのは昭和29年からとの記録があるので新しいことに取り組む姿勢を見ることができる。

ボックスサイドプレートの専用スポット溶接機の略図 ボックスサイドプレートの専用スポット溶接機の略図


●昭和30年代
三輪トラックのグレードアップが続き昭和32年HBR型丸ハンドル式を出した。
このフレームは櫓タイプの全溶接構造であった。
従来からメインフレームなど強度部品は接合はリベットであったが、昭和29年ごろより、大型化、多様化ニーズに応えるニューモデルから溶接接合を増やしていった。
溶接設計ノウハウを蓄積して、再度レールを閉断面に、クロスメンバーにパイプを使い、リアスプリングハンガーをダクタイル鋳鉄から鋼板製に替えるなど合理的な溶接構造となった。

HBR型丸ハンドル式三輪トラック1400cc HBR型丸ハンドル式三輪トラック1400cc

全溶接櫓タイプフレームのフロントフレーム、リヤフレームの接合をしている当時の職場風景である。
なお自動溶接は昭和26年頃イギリスのフューズアーク溶接機をリアアクスルケーシングにトライしたが問題が多く、ユニオンメルトはフレーム部品直線部分に昭和29年から導入し早くから溶接作業合理化に成果を上げた。

メインフレームの溶接職場 メインフレームの溶接職場

昭和35年当時の国民車構想に沿ってR360クーペを出し、ついで昭和37年軽乗用車キャロルを生産、モータリゼーションの伸展を実感したものである。
また、日本の総生産台数は飛躍的に伸び、昭和36年には初めて年産100万台を突破した。
この35~37年の3年間はシェアが20%を越え自動車業界の量産化の最先端を進んだ。
なお三輪トラックの高性能化や相次ぐニューモデルの生産には呉海軍工廠、第11航空廠出身者の熟練した技能が貢献した。
自動車にはエレクトロスラグ溶接など厚板専用の溶接法を除く多くの溶接法(溶融溶接、抵抗溶接、軟硬鑞付)が使用されている。
中でもボデーのスポット溶接は量が多く、品質、効率を追求し続けている代表的な工程であり、とくに自動化省人化の競合は激しかった。
短い期間で欧米を凌ぐ優れた専用設備を持つことになるが、この成果はインバータ制御直流式の様に性能向上、小型の機器の発達に負うところが大きい。
日本の自動車メーカー各社の競争は自動化の競争である、と言われている。
スポット溶接自動化は欧米に倣ってマルチ溶接機から始まり、昭和35年頃から急速に広まった。
キャロルの生産にはフロアーパンと骨格メンバーとの溶接約150点に本格的なマルチ溶接機が使用された。
これを機械に溶接自動化の生産技術力は大いに向上した。

メインフレームの溶接職場 生産累計百万台達成記念パレードの記念車キャロル

メインフレームの溶接職場 キャロル、フロアーボード用マルチ溶接機


●昭和40年代
一つの車種で生産台数が月産10,000台を越えると生産サイクルタイムは1~2分となり約300点を溶接する大規模な専用溶接機が必要となる。
汎用性を持たすため、フィクスチャー交換可能な4ポストプレスウェルダーを並べたトランスファーウェルダー方式が採用された。
マルチ溶接機は効率に大きな威力を発揮するが採算面で制約がある。
そこで現場の創意を生かして、工場で製作された自動化装置を「軽自動化」と呼び支援奨励した。
車体工場が次第に設備装置化されていく中で溶接作業者の能力向上と活性化に有効であった。
スラットコンベアーの動きを利用してサイドシルをスポット溶接する簡易な軽自動化溶接装置により立派に省人化できた。
また、ボデーシェル増し打ち工程のウィンドウ開口部のような曲面を溶接する装置も手がけた。

スポット溶接ロボットは昭和46年頃から姿を現すが、マツダはロボットの車内製作実用化など検討が早かった。
各社ともボデーシェル増し打ち工程から導入が始まった。
ルーチェボデーの増し打ちをするロボットラインを示す。各ロボットには愛称をつけて大事にしていた。
カープ山本浩二選手の顔写真が見える。
昭和55年にはアーク溶接ロボットも出始め、ロボット普及元年と言われた。

増し打ち工程のスポット溶接ロボット 増し打ち工程のスポット溶接ロボット


●昭和50年代以降
自動車ボデー外板接合にMIGが有効に利用されている。
昭和53年スポーツカーサバンナにMIGブレージングを活用し、従来のハンダ作業を廃止することができた。
電子ビーム溶接によりミッションギヤのコンパクト化など重量軽減に成果をあげた。
多様化成熟化の時代変化に伴いボデー組立ラインも多車種変量生産の要求が強い。
ロボット治具搬送機などと共にエレクトロニクス、情報処理技術を駆使した制御でラインが構成される。
写真は組み立て、スポット溶接作業の無人化を実現し、混流生産が出来るボデー組み立てラインの三面切り替え治具である。
ボデーを構成する部品をスポット溶接するためコンパクトな溶接ガンを治具に仕込み、溶接ロボットで給電する仕組みである。
ボデー精度をあげるためスポット溶接仮付点数を多くし、しかも仮付工程を一工程化した。
更にライン内自動計測システムの導入によりボデーの寸法精度は著しく高くなった。
車としての性能向上と共に、ドアー、ボンネット、などの段差、隙、艤装品の折り合いなど外観は一層優美になった。

ボデーへのアークブレージング適用例 ボデーへのアークブレージング適用例

ボデー組立ラインの治具部分 ボデー組立ラインの治具部分

ユーノス800ミラーサイクルエンジン ユーノス800ミラーサイクルエンジン



自動車工業は総合生産であり、使用する溶接技術の範囲も広い。
今までは自動車が担った技術開発は品質や効率の技術改善が中心で、これが日本の技術競争力を大いに高めたことは間違いない。
しかし、品質の安定性は未だ条件因子を十分押さえているとは言えず、作業者のチェックを加えた品質管理システムで維持されているものが多い。
また溶接職場の環境は他の職種の環境に比べ改善の余地は大きい。
今後は電子ビーム、レーザ加工等の高エネルギー密度溶接の適用などで新たな製品開発を進めると共に、自動車の抱える軽量化、環境保全の新しい問題を含めて在来溶接法の品質信頼性を遙かに高める努力を重ねながら使っていきたい。
さらに生産技術力により能率と共に、働く人の意欲、充実感を高める工場環境の実現を目指したい。